沈船 ゆうほう丸 1944年11月26日 魚雷を受けて沈没

ゆうほう丸は、 1943年11月10日に、三菱重工・長崎造船所にて建造された、東京都飯野海運株式会社所有の 、大型オイルタンカーです。 

総トン数は5,227トン、 全長121.2m、 ビーム長16.3m、 蒸気タービンを搭載し、 スピードは11ノット。 

 同造船所では、これに先立つ1942年8月、戦艦武蔵が建造され、戦地に向け出航しています。 

そして、その武蔵も含めた大和級戦艦を擁した栗田艦隊が、1944年10月22日、ブルネイ湾から、レイテ沖海戦に向けて出撃した、そのほぼ1ヶ月後の1944年11月26日午後4時11分、ゆうほう丸は、ブルネイ西方の国境の町、クアラブライトの沖、北方約17マイルにおいて、米海軍の潜水艦USSパルゴSS-264から放たれた、一発の魚雷の襲撃を船尾側右舷に受け、沈没しました。

 前出の、ブルネイ北部でのオイルタンカー 梅栄丸の、触雷による沈没が、1944年10月28日のことです。 

日本を守るため、戦陣に赴く大艦隊を、後方で支えるべき、これら補給戦力の立て続けの喪失は、太平洋戦争の戦局が、当時の日本にとって、明らかに末期になりつつあることを物語っています。 

ゆうほう丸の、撃沈による、この時の犠牲者の記録は、これまでのところ、ありません。 

この沈船は、戦後から、地元の漁師によく知られていましたが、 シェル・ブルネイ石油会社の地形局によって、正確に位置が特定され、のち、1979年に、地元BSACクラブのダイバーによって調査が行われ、 2004年に、ゆうほう丸として確認されました。

 ここには、長さ70メートル、幅16メートルの、船尾側マストからの後方の部分だけが、深度約55メートルの海底から、高さ約14メートルに及んで、残骸のようにして残されています。 

ゆうほう丸は、船尾側右舷の、ちょうど救命ボートの真下あたりに魚雷を受け、その激しい衝撃によって破壊されできた、大きな開口部から、エンジンルームに浸水し、そして沈没したと推測されます。

 まず、船尾部分が着底し、その時、油槽がある船首側の船体は、水面方向に浮き上がった状態となり、そしてその後、何らかの力がはたらいて、ほぼ真っ二つに割れた可能性があります。 

この船首側の船体は、聞き伝えによれば、日本軍の手で、約1000kmの距離を牽引され、現在はシンガポールの東方、約150マイルの海底にあるとされていましたが、実際は、マレーシアの国境の町、ミリの沖合に沈んでいる、というのが正しいようです。 

ミリの沖合では、同様に1944年11月28日、やはりオイルタンカー である愛宕丸が、米軍の空爆によって撃沈されています。 

ゆうほう丸の、緩やかに弧を描く船尾は、時を経てもなを、綺麗にその姿をとどめています。 

また、プロペラや、後部甲板上に設置された機銃も、いまだにかつて活躍していた頃の気配を残して、そこにあります。 

魚雷によって、激しく破壊されてできた、開口部からのペネトレーションは、折れ重なる瓦礫状のクロスビーム等に、細心の注意が必要ですが、可能です。

 居住室であったとおぼしきあたりでは、瀬戸物の茶碗の破片や、ビール瓶の破片など、船内での生活の名残が散見されます。

 ゆうほう丸へ向けた、シンズテックのダイブボートが出航する、ブルネイの国境の町クアラブライトの港は、現在は、シェル・ブルネイ石油会社の、タグボートなどが頻繁に出入りする、ベース港となっています。  

沈船 梅栄丸 1944年10月28日午後10時55分 沈没

梅栄丸は、鹿児島県日立造船桜島造船所にて、1944年3月に建造された、日東汽船株式会社(東京都)所有の、大型オイルタンカー です。

全長93.5m、船幅13.8m、排水量2858トン、スチームタービンエンジン搭載、トップスピードは11.5ノット。

ブルネイは、太平洋戦争のさなか、日本とシンガポールを結ぶシーレーン途上にあって、石油を豊富に産出する、戦略的な要所でした。

少し遡ること1941年、太平洋戦争の開戦当時、それまでの統治国であった英国は、日本軍の侵攻からのがれて退却する際に、セリアとミリの油井を破壊することにより、日本への石油の供給を断とうと試みましたが、日本は、これらの油井の修復を行い、ブルネイにおける石油生産は継続されていました。  

太平洋戦争が末期となる、1944年10月22日、フィリピン・レイテ沖での戦いに向け、ブルネイから、戦艦大和、長門、武蔵、重巡摩耶、鳥海、高雄、愛宕、羽黒、妙高など、多くの戦艦が艦隊を組み、出陣していきました。

これら先陣に赴く、多くの戦艦に燃料を補給するため、同様に、多くの大型オイルタンカーが、ブルネイを拠点に、活動をしていました。

厳島丸(1944年10月27日、ボルネオ島北方で沈没)日豊丸(1944年10月、クダットで沈没)、大室山丸、両栄丸、万栄丸、ゆうほう丸(1944年11月26日、セリア沖で沈没)、愛宕丸(1944年11月3日、ミリ沖で沈没)、万栄丸(1944年11月6日、ブスアンガで沈没)など。

そして、梅栄丸は、ブルネイとマレーシア・プラウクラマンとの間に横たわる、ムアラ海峡の中央部において、1944年10月28日、記録によれば、当日朝7時30分に触雷、午後10時55分に沈没、3名の乗務員が、その時の爆発によって、犠牲になったとあります。

ムアラ海峡は、未だボルネオ島が陸地となる以前の、太古の時代に、現在産出されている化石燃料(石油・ガス)のベースとなる有機物を大量に流しこんだ、古代河川の名残で、深度50mから最深部で約130mに落ち込む海溝を形成しています。

梅栄丸は、ブルネイシェル石油会社が、資源探索のため、高解像度での深度調査を行っていた際に、偶然発見され、その後2008年6月、ブルネイのBSACダイブクラブの、少数のダイバーによる実地調査で、梅栄丸であることが確認されています。

梅栄丸は、船腹を真上にし、海溝の崖淵に引っかかるような形で、傾斜した砂泥の上に、全身にソフトコーラルを纏い、着底しています。 深度は約55mから最深部で約65m。

船首部右舷に、触雷でできたと思われる開口部があり、貨物室(?)へのペネトレーションは可能です。シングルシャフトの、直径3mほどのプロペラも健在です。

しかし、沈船の形態から、ショットライン投入は容易ではなく、また、海溝であるため、水中環境は暗く、透明度も通常あまり期待できないせいもあって、未だ、この沈船・梅栄丸の詳細はわかっていません。




沈船 米国海軍掃海艇 USS Salute AM294 1945年6月8日沈没

USS Saute AM294は、全長60メートル、排水量6265トン。1800馬力ディーゼルエンジン搭載の米国アドミラブル級掃海艇です。 1942年11月にワシントン州シアトルにて建造され、1943年2月に進水、当初は真珠湾とミクロネシア海域の間を行き来する、米国海軍艦隊の護衛艦としての任務にあたりました。 

その後、太平洋戦争の戦局の変化に伴い、1944年10月8日に、米国第7艦隊に配属され、同20日、米軍機雷部34の所属となり、レイテ湾輸送ルートの掃海等の任務を開始します。

記録によれば、USS Salute AM294は、同10月27日から31日にかけて、米海軍の護衛艦隊や爆撃機とともに、サマール沖海戦後の生存者捜索と救助に当たり、その間はゼロ(=カミカゼ)による特攻も含めた、日本軍の激しい攻勢にあったとされています。

さらにその後の数ヶ月間は、フィリピン・レイテ周辺における主要な戦闘地域、オーモック湾、ミンドロ地域、スービック湾、マニラ湾、さらにはパラワン地域など、多くのフィリピンの上陸地点での掃海や警備等の任務を継続して遂行します。

そして1945年6月8日、ブルネイ湾において、連合軍が侵攻する直前の掃海作業中に、日本軍が敷設しておいた機雷に船体中央部を触雷させて沈没。 居合わせた上陸用船艇2艘が救助に当たりましたが、結局9名の水兵が犠牲となりました。
 
前出の今治丸の南方約1.4キロ地点、水深約35メートルの砂泥の上に、USS Salute AM294は、触雷による破壊の凄まじさをいまだに生々しく物語る姿で着底しています。  甲板上には未だに砲弾などが散乱し、掃海艇内部の構造物や機材の多くが瓦礫のように露出しています。

触雷によって作られた亀裂の隙間から、もしくは船尾側デッキ上の開口部からのペネトレーションは可能ですが、掃海艇の構造上、厳しいリストリクションを経由することになります。

USS Salute AM294には、のちに米国より、彼女の太平洋戦争末期におけるこれら極東での多大な功績に対し、”5バトルスター” の称号が与えられました。


沈船 今治丸 1944年9月16日9時45分に沈没

今治丸は、元の名をS.S De Clerkといい、1900年12月にオランダ・アムステルダムのNV Koninklijke Paketvaart Mij(KPM)社によって旅客/貨物船として建造されました。

三重膨張式のスチームエンジンを搭載し、スピードは12ノット。

全長90.4メートル、幅12.3メートル、積載量は2071トン。

そしてS.S De Clerkは、当時、オランダの長期にわたる統治下にあった東インド諸島、現在のインドネシア・アジアの島々とオーストラリアとをつなぐ交易のルートに配備され、そこで旅客や貨物の運搬に使用されることになります。

そして歴史がめぐり、大東亜戦争(太平洋戦争)が開戦となったその翌年の1942年1月末、ジャワ島チラチャプ市でオランダ海軍の軍用船への転換のため、所有社であった民間のKPM社からオランダ領インド政府へと引き継がれます。

戦局はさらに急展開し、1942年2月末に日本軍がオランダ領東インド地域へと侵攻します。

ここでの10日ほどの激しい戦闘の末、東インド植民地軍は日本軍に対して全面降伏し、在住していたオランダ人の多くはオーストラリアなどの近隣の連合国に引き揚げる経緯となり、この時点で350年という長期に渡る当地域でのオランダの植民地政策に日本軍によって終止符が打たれることになります。

そしてこの間、オランダ海軍はこの地域からの撤収を余儀なくされるに際し、S.S De Clerkが日本軍にによって使用されてしまうことを防ぐため、1942年3月2日、マレーシア西部のタンジョンプリオクで故意に沈没させます。

しかしその後、日本軍はこの地域の統治を急速に進めてゆくにあたり、S.S De Clerkを海底から引き上げ、それを今治丸と改名しました。

こうして蘇った今治丸は、当時の日本の戦略的なシーレーンであったシンガポールとマニラの間での物資や人員を運搬する役目を負い、再び活躍の場を得て当地での海上往来を継続することになります。

しかし日本にとって太平洋戦争の戦局が悪化するに伴い、今治丸にとっての運命の時が訪れます。

それは1944年9月16日9時45分、ボルネオ島北部のサンダカン市にあった捕虜収容所の米軍捕虜たち、そして当地で先陣に赴く英雄たちを後方で支援してきた人々など、男女を問わず総勢1210人の人員を載せ避難させるためシンガポールへ向けて出航した直後、オーストラリア海軍の爆撃機が飛来し放たれた一発の魚雷が右舷先方に命中、今治丸は浸水し沈没します。

この時以来、今治丸は、現在のマレーシア・ラブアン島とブルネイ・ムアラ湾沖とのちょうど中間地点あたり、左舷側に約50度の角度に傾いた姿で深度約40mの砂地の海底に身を横たえています。

現在まで、今治丸と共に海底に沈んだ方々のご遺体の収容は残念なことに未だなされてはいません。

チーク材のデッキと木製のホイールハウスは既に過ぎ去った時間とともに消え失せ、鋼鉄のシェルと上部甲板の下の3層構造を支える隔壁やクロスビームの一部のみを残しています。 

右舷前方の魚雷によって作られた大きな開口部から貨物室、そしてエンジン室を経て後部貨物室へのペネトレーションは、長期にわたって堆積したシルトに細心の注意が必要ですが可能です。

今治丸は、その長きに渡る波乱の歴史を全て忘れ去ったかのように、今ではソフトコーラルですっかり覆われ、ギンガメアジの大群や、大きなまだらエイなどをはじめとする大小様々な魚たちが群れ集う温和な水中環境の主となり、時には明るい光も差し込んでくるブルネイの海底でいまだにひっそりと時を刻み続けています。