今治丸は、元の名をS.S De Clerkといい、1900年12月にオランダ・アムステルダムのNV Koninklijke Paketvaart Mij(KPM)社によって旅客/貨物船として建造されました。
三重膨張式のスチームエンジンを搭載し、スピードは12ノット。
全長90.4メートル、幅12.3メートル、積載量は2071トン。
そしてS.S De Clerkは、当時、オランダの長期にわたる統治下にあった東インド諸島、現在のインドネシア・アジアの島々とオーストラリアとをつなぐ交易のルートに配備され、そこで旅客や貨物の運搬に使用されることになります。
そして歴史がめぐり、大東亜戦争(太平洋戦争)が開戦となったその翌年の1942年1月末、ジャワ島チラチャプ市でオランダ海軍の軍用船への転換のため、所有社であった民間のKPM社からオランダ領インド政府へと引き継がれます。
戦局はさらに急展開し、1942年2月末に日本軍がオランダ領東インド地域へと侵攻します。
ここでの10日ほどの激しい戦闘の末、東インド植民地軍は日本軍に対して全面降伏し、在住していたオランダ人の多くはオーストラリアなどの近隣の連合国に引き揚げる経緯となり、この時点で350年という長期に渡る当地域でのオランダの植民地政策に日本軍によって終止符が打たれることになります。
そしてこの間、オランダ海軍はこの地域からの撤収を余儀なくされるに際し、S.S De Clerkが日本軍にによって使用されてしまうことを防ぐため、1942年3月2日、マレーシア西部のタンジョンプリオクで故意に沈没させます。
しかしその後、日本軍はこの地域の統治を急速に進めてゆくにあたり、S.S De Clerkを海底から引き上げ、それを今治丸と改名しました。
こうして蘇った今治丸は、当時の日本の戦略的なシーレーンであったシンガポールとマニラの間での物資や人員を運搬する役目を負い、再び活躍の場を得て当地での海上往来を継続することになります。
しかし日本にとって太平洋戦争の戦局が悪化するに伴い、今治丸にとっての運命の時が訪れます。
それは1944年9月16日9時45分、ボルネオ島北部のサンダカン市にあった捕虜収容所の米軍捕虜たち、そして当地で先陣に赴く英雄たちを後方で支援してきた人々など、男女を問わず総勢1210人の人員を載せ避難させるためシンガポールへ向けて出航した直後、オーストラリア海軍の爆撃機が飛来し放たれた一発の魚雷が右舷先方に命中、今治丸は浸水し沈没します。
この時以来、今治丸は、現在のマレーシア・ラブアン島とブルネイ・ムアラ湾沖とのちょうど中間地点あたり、左舷側に約50度の角度に傾いた姿で深度約40mの砂地の海底に身を横たえています。
現在まで、今治丸と共に海底に沈んだ方々のご遺体の収容は残念なことに未だなされてはいません。
チーク材のデッキと木製のホイールハウスは既に過ぎ去った時間とともに消え失せ、鋼鉄のシェルと上部甲板の下の3層構造を支える隔壁やクロスビームの一部のみを残しています。
右舷前方の魚雷によって作られた大きな開口部から貨物室、そしてエンジン室を経て後部貨物室へのペネトレーションは、長期にわたって堆積したシルトに細心の注意が必要ですが可能です。
今治丸は、その長きに渡る波乱の歴史を全て忘れ去ったかのように、今ではソフトコーラルですっかり覆われ、ギンガメアジの大群や、大きなまだらエイなどをはじめとする大小様々な魚たちが群れ集う温和な水中環境の主となり、時には明るい光も差し込んでくるブルネイの海底でいまだにひっそりと時を刻み続けています。