ブルネイの中心地、バンダ・セリ・ベガワンから、沿岸ハイウェイを西方に約100キロほど下ると、油田の街、セリアがある。
ブルネイの、これまでの繁栄と平和を支える街だ。
海上には油井が望まれ、街なかでも”うなづきロバさん”と呼ばれるオイル汲み上げポンプが、そこかしこで休むことなく稼働している。
海上の油井
街なかの油井
うなづきロバさん
イギリスのシェルオイルの家族が多く駐在していることなどもあって、街の外観はとてもすっきりしている。
ブライト地区の街並み
ここセリアで産出される天然液化ガスは、日本が全産出量を引き受けている。
グルカの傭兵たち(ネパールの山岳民族から構成される戦闘集団)の、バリケードで固められた駐屯ベースが、この油田の街、セリアにはある。
ここから、マレーシア・ミリの国境までは、あとほんの数キロの距離だ。
沿岸ハイウェイがセリアの街に入る手前、山側に折れる細い分岐がある。
それが熱帯雨林の秘境の村、ラビに続く道だ。
約50キロの道のりは、舗装はされてはいるものの、高木が生茂る熱帯雨林を掻き分けて進むような、曲がりくねった起伏の多い道が続く。
途中、思いがけず、黒い水を湛える開けた湿地帯があった。
黒い水の湿地
いつだったか、誰かから、この辺りの黒い水は飲むとなぜか体に良い、と聞いたことを思い出す。
ボルネオの、大自然本来の生態系の永続を祈念する式典が、数年前にそこで行われたことを記す石碑もあった。
この場所にまつわる話を、このあとラビ村でイバン族のベランジさんから聞くことになる。
イバン族は、ボルネオの熱帯雨林に古くから住む山の民である。
ラビ村は、山深い大自然にほとんど溶け込むようにして佇む静かな部落だった。
ブルネイの国花、黄色いシンポール(びわもどき)の花がところどころに咲いている。 マンゴー やドリアンの匂いがふとそよ風に混じる。
シンポールの花
若手は都市部に出て行ってしまい、残った人々が小規模な農業で暮らしを立てているという。
唯一ある観光施設がロングハウス、11所帯が共に暮らす、ひと続きの横に長い木造の建物である。
いわゆるリビングの場所は、仕切りのない、やたら長い共有の空間になっていて、そこから奥は、個々の家族が暮らすプライベートな住まいになっている。
ロングハウスのテラス
ロングハウスの居間の
出迎えてくれたリンダさんに、入場料のB$3(=約200円)を手渡す。
ちょうどガワイ・ダヤックという、イバン族にとっての収穫祭の日だったので、自家製の米から作る濁酒トアとグラス、地産のたばこ、そして檳榔のセットが供された。
トアとタバコなど
リンダさんの父親ベランジさんが奥から出てきた。
小柄ではあるが、指が太く、肩ががっしりした山の民イバン族の風情を身に纏っている。 静かな語り口だった。
ベランジさん(左がわ)
何気ない会話を交わすうち、相手が日本人とわかると、お前はコマンダー・ナガサキ(ノガサキ、あるいはネガサキ、とも聞こえたが、とりあえずナガサキ、とした)を知っているか? と聞かれた。
ここから先が、ベランジさんの父、故ジャマオ・アマク・クニンさん(Jamao Amak Kuning Mr) が語り伝えた話である。
ジャマオさんは、第二次大戦が末期となる1944年ごろ、セリア・ブライト地区で日本軍のために働いていた。
ブルネイ国は、当時はまだ存在していない。
北ボルネオの日本統治時代の区分
当時現地の日本軍、ボルネオ守備軍は、1944年9月12日に再編成された灘集団、後の第37軍である。
ジャマオさんは日本語がよくできた、ということなので、おそらく当時の錬成教育を受けていたのではないかと思われる。
1944年から1945年の終戦にかけては、非常に不穏な時期であったことは、想像に難くない。
栗田艦隊が、現在のブルネイの北側に位置するムアラ湾から、フィリピン のレイテ湾に向けて最後の出撃をしていったのが1944年10月、その一ヶ月前には、同じムアラ湾の沖合で、サンダカンから逃れてきた貨物船イマバリ丸(今治丸?)が、オーストラリア空軍の爆撃にあって沈没、乗船していた英国軍・豪州軍の戦争捕虜、その地で前線にあって働いていた妓楼の人々など共々、300名以上が海底に沈んでいる。
今治丸の海底スケッチと現役のころの写真
ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/第37軍_(日本軍) に、最終司令部構成の記述があったが、そこにはコマンダー・ナガサキの名前は見当たらない。
おそらく、独立歩兵大隊もしくは中隊を統括する隊長か、それに準ずる立場であったのだろう。
コマンダー・ナガサキが、セリア・ブライト地区を脱出し、子供や家族もふくめ約300人の大勢を引き連れ、ミリへ生きて到達するために、危険な沿岸路を避け、大きく迂回して熱帯雨林の山奥のラビ村を目指したのは1944年の末にかけてではなかろうか。
熱帯雨林を掻き分けて進む300名もの脱出行は、山の民イバン族であり、同時に日本語も達者だったジャマオさんの助けがなければ不可能だった筈である。
先述のラビ村に近い黒い水の湿地は、ジャマオさんの先導で、コマンダー・ナガサキ以下の300名が辛うじて辿り着き、いっときの寛ぎを過ごした命の水場であった。
直線距離にして、約50キロの登りでラビ村に着き、そこからまたミリまでさらに約50キロの下りは、すべてが熱帯雨林の道無き道、何があり何が起こるか全くわからないような密林の中を行かねばならない約100キロの行程である。
ラビ村への道とミリへの道、青色が現在の道路、緑色点線が脱出行程
そして、そのような大勢の一行を、深い熱帯雨林のなか、滞りなく無事に行進させてゆくには、単に先導のみならず、火起こしから始まる食事の調達や準備、水の確保や運搬、道中の安全の確保、様々な薬草の使用、毒物の知識、密林での夜営の方法など、山の民イバン族ならではの、深い経験に基づく様々な知恵とその的確な実践が不可欠であったに違いない。
参考写真 イバン族の現役レンジャーのジャイ君
そのように思うと、ジャマオさんはイバン族の通訳もできる、チームのリーダー格であって、実際はまだ他にも多数のイバンの実行部隊の人々が一行の世話をしてくれていたことが想像できる。
もう一人のジャマオさん、さらに複数の、多くのジャマオさん、というようにイバン族の人々が総勢で、コマンダー・ナガサキ率いる一行の命を守ってくれたのではないか、と思われてくる。
ミリに辿りついた後、コマンダー・ナガサキは、ジャマオさんの尽力を称え、日本軍としての勲章と賞状をしたため、手渡したとのこと。 しかしこれらの物品はその後盗難にあい現存してはいない。
詳細は明らかにする由もないが、とにかくもイバン族の人々の力によって、日本軍人及びその家族一行の身の安全は何とか確保され、セリアからミリへ大きく密林を迂回しての脱出行は無事に完遂されたと思いたい。
その証拠として、過去、ラビ村に少数の老齢の元日本軍人の方々のグループが慰霊の旅にひっそりとおとづれ、そして黒い水の湿地で長く手向けの時を過ごしていたことがある、と聞いた。
ジャマオさんについては後日譚がある。
ジャマオさんは、一行をミリまで送り届けた後、セリアに戻った。 そして、日本軍が撤収した後を占領したイギリス軍から喚問を受けた。
イギリス軍将校は、その時、ジャマオさんの話を聞き、人としてコマンダー・ナガサキ一行を援助した、その忠義の行いと実行力に感服し、敬意を払い、そして今度はイギリス軍のために引き続き貢献してくれるようにと、特別な計らいとなしたという。
帰途、黒い水の湿地にもう一度立ち寄り、ベランジさんの話しの余韻の中で、当時の情景に思いをはせる。
強い日差しが黒い水の面を眩しく照らし、遠方に熱帯雨林の緑が濃い。
コマンダー・ナガサキをはじめ一行の全ての人々が、途次、ここのほとりで黒い水を掬い、汗を拭った。
行く手にはまだ深い熱帯雨林の過酷な行程が、延々と待ち受けている。
そして、ふと淵に咲く黄色の花、シンポールにも目をとめたにちがいない。
©️2020さわみしん