海といのち

楽しかった海中でのダイビングを終え、水面に顔を出す。

なんとなくホッとして、見上げると、そこには青い空があり、明るい日が差していて、白い雲が浮かび、緑の陸地が見え、そして波間ではときおり、銀色の小魚が跳ねたりする。

私たちの住む地球の表面は、厚く大気と、その圧力によって、自然の営みが、しっかりと守られ、そして、それがとてもバランス良く保たれています。

私たちをはじめ、すべての生きものにとって、無くてはならない酸素ガス(O2) は、私たちが暮らす地表付近にあっては、みなさんすでによくご承知のように、大気中に約21%前後という、なんとも絶妙な値で含まれていて、あとはほとんど全てが、約78%という大量の窒素ガス(N2)で占められています。

私たちは、この大気というものを、あたかもあたりまえのように呼吸しながら、毎日を過ごしています。

でも普段、私たちが呼吸するというとき、たとえば、さあ息を吐いて~そして吸って~とか、では大きく深呼吸をしましょう~、とかいうときの呼吸は、私たちのアタマに付いている、口や鼻、そして胸にある気道から、せいぜい肺までの空気の出たり入ったり、すなわち、いわゆる外呼吸のみを、意識をしているのではないでしょうか。

けれども、私たちの呼吸というのは、それだけでは終わりません。まだ先があります。それは、もうひとつの大事な呼吸のしくみ、私たちの体内の組織で、いのちの炎を燃やす、内呼吸と呼ばれるものです。

吸う息によって、肺に取り込まれた大気は、そのあと肺を構成する、多くの肺胞の、薄い膜をとおして、そこにある毛細血管から、体内を巡る血液のうちに取り込まれます。

このとき、私たちの体内で、いのちの炎を燃やすのに必要な酸素は、ガスの状態から、血液に溶ける分子となり、それを血液中にあるヘモグロビンという、スグレモノのタンパク質が、ヨイショとばかりに担ぎ上げ、血液の流れに乗せていきます。

いっぽう、大気中に、大量に78%も含まれていながら、ヒトの体内で、いのちの炎を燃やすことなどには、一向に関心のなさそうな窒素のほうはといえば、こちらはこちらで、やることなすこと全ては成り行き任せデス~ といったふうで、いとも何気なく、これまたガスの状態から、分子となって、血液中へ、さらっと溶け込んでゆきます。

こうして、私たちの、体の組織に旅立つ準備ができた血液を待ち受けているのが、私たちにとってとても大切な、片時も休まず、ただひたすら黙々と働き続けてくれている、偉大な臓器、そう、心臓です。

肺から送られてきた、酸素をたっっぷりと含んだ血液は、一旦心臓に入り、そこから、それドックンドックンとばかりに、太い一本の大動脈から押し出されて、あとは私たちの全身の、隅々の組織までの旅(=動脈の循環)に出ます。

からだの隅々の、組織にまでたどり着いた酸素は、そこでヘモグロビンから、ほらよっ、とばかりに降ろされ、そして、そこでいのちの炎を燃やすお手伝いをします。

たいていいつもは穏やかに、淡々と、しかしあるときは激しく、そしてまた、ある時には強い私自身の意思によって。

このいのちの炎が、からだの隅々の組織で燃えると、その結果、二酸化炭素が生じます。

とても賢い、私たちのヘモグロビンは、この時も、それら燃えかすの二酸化炭素を、できる限り頑張ってとり上げ、今度は、えいやっとばかりにうちに抱き込んでしまい、そして、これまでのルートとは別の、心臓まで戻ってくる、帰りの途(静脈の循環)につきます。

この帰りの静脈の循環の途は、さすがのわが心臓さまにとっても、遠い末端の体の組織から、せっせせっせと血液を吸い上げ、呼び戻してくるという、しんどい仕事であるため、上半身ルートと下半身ルートとの、二つのルートに分かれて管理することになっていて、心臓への戻り口である大静脈は、従ってなんとも都合よく、上下の2本の構造をもっています。

さて、そのようにして、心臓にがんばって戻ってきた、血液中に閉じ込められていた二酸化炭素は、さらに肺胞の毛細血管に送り戻され、そしてその壁をくぐる時、それまでの分子の状態から、ここでぽあっとガス状になり、肺から胸の気道を抜け、私たちのアタマについている口や鼻から、吐く息として、ようやくやれやれとばかりに、体外に放出されてゆきます。

ちなみに、もういっぽうの窒素のほうはといえば、私たちの血液の流れに身を任せっぱなしで、結局は何もしないまま、組織への行き帰りの旅を勝手に堪能したあと、そしてここ肺胞で、やはりいとも何気なく、すうっとガスに戻り、じゃあね~とばかりに吐く息として、大気中に戻っていきます。

えっ、窒素って、何でそんなにいっぱいあるくせに、役立たずで、おまけに勝手で、うーん何となくやなヤツみたい、なんて思われるかもしれませんが、実はこれ、窒素には窒素の大事なお役目があっての上での、どーしようもないキャラなので、ここはひとつ、このまんま見過ごしておくことにしましょう。

私たちは、普段はほとんど意識をしていませんが、本来の呼吸とは、このように、肺まででおこなう、ただスーハーするだけの酸素と二酸化炭素のガスの交換、すなわち外呼吸だけではなく、それから先の、体の組織内で、血液の循環が取り持つ、いのちの炎を燃やすプロセスでのガスの交換、すなわち内呼吸をも含んでいます。

さて、ここでひとつ思い出されることがあります。

それは、呼吸、すなわち、自分の息というものは、私たちのいのち、それ自体の自然の営みなのですが、私たちにはこころがあり、したがって私たち自身のアタマ、つまりは意思によってもコントロールすることができる、ということでした。

ところがしかし、外呼吸のほうは、自分の意思が伝わる、呼吸筋や横隔膜で行うので何とかなりそうですが、内呼吸のほうは、心臓さまがとり持つ、血液の循環によって行われていて、そしてそれは、本来、私たちのアタマ=意思では、どうしても動かすことのできない、いのちそれ自体の、自然の営みそのものです。 

心臓さまはあたかも、”ワタクシは命そのものであるからして、アレコレ考えたりするアタマなんぞをかまったり、かまわれたりしているようなヒマは、ゼンゼンない、命には命の道があるのであ~る”  とばかりに、喩えてみれば、私たちの息が続く限り、せっせせっせと働き続けてくれているように見えます。

でも、そんな、私たちの手には、全く届かないところにあるように見える心臓ですが、私たちの息に、様々な表情があるように、心臓にも確かに様々な表情、というよりも、結構敏感に反応する、感性のようなものがあることは、毎日の暮らしの中で、皆さんにも十分に身に覚えがあることかと思います。

私たちは、よくこんな言葉の表現を使います。

ワクワクドキドキ、ソワソワドキドキ、胸がキュン、びっくりドッキリ、恐怖にバクバク、冷や汗ドキドキ、などなど。

みんな、ドキドキとかドッキリとか、心臓の鼓動の音に喩えた、それぞれ私たちのこころの状態を、心臓での感性で表現する言葉たちですね。

そう、心臓には感性があります。

私たちのこころは息にあり、心臓には感性がある。

そして息、呼吸を受け持つ肺と心臓は、機能として密接に連携し合う、いわば切っても切れない仲です。

そうであるならば、私たちのこころの表情である息は、心臓の感性とは密接な関係にあって、一見手の届かないところにあるようですが、もしかすると、私たちの息は、もとよりすでに、心臓とけっこうしっかりと、互いに感性を交わしあっている仲なのかもしれません。

ではここで、私たちの心臓の感性というものは、もとはといえば、どこから来たるものなのでしょうか。

肺や心臓を始めとする、いわゆる五臓六腑と言われる内臓なども含め、私たちのいのちの営みを司る、指令の伝達は、皆さんすでに良くご存知にように、これもやはり、私たちのアタマの意思ではどうにもならないとされている、自律神経によって行われています。

そして、自律神経には二種類あって、感覚や運動など、外部周囲への反応として、からだ内部から発信される、感性を司る交感神経と、食・消化・排泄・生殖など、私たちのいのちの本来の営みを守ろうとする、からだ内部の感性である、副交感神経とで構成されています。  

この自律神経の二つの系統は、私たちのいのちそのものの感性、言わばヒトという生きものが本来もち備えている感性を司り、私たちのからだ全体が、恒に均衡を保ち、そして平穏無事でいられるように、あるいは又、夜はぐっすりスヤスヤと眠れるようにと、たえず監視の目を光らせてくれています。

私達のアタマでは、ぜんぜん預かり知らぬところで、あたかも私たちのいのちの目的が、実はまさに生きていること、それ自体であるかのように。

さてそれでは、私たちのいのちにとって、大事な役割を果たしてくれている、これらの二つの自律神経の系統は、特に心臓においては、私たちの生命の発達史の中で、どのように私たち人類にもたらされて来たものなのでしょうか。

実は、私たち人類のご先祖様が、遥か悠久の昔、まだ海の中にいて、魚であった頃の心臓は、右も左もなく、ただ一対の心房と心室が、縦につながっているだけの、全く単純なポンプ構造でした。 

海の中、潮のながれのなかで、エラの~調子は~今日もいい~、などと鼻歌混じりにいつもまったりしていられた、魚君たちの暮らしでは、現在の私たちのように、地上で引力に逆らって、2本の足で歩いたり、飛んだり跳ねたりする必要もなく、従って、動脈血を、ポンプにように頑張って押し出す必要などはありませんでした。

魚君たちの、体内の循環のしくみとしては、鰓で酸素を得た動脈血が、体内を巡り、そして戻って来た静脈血を、ひとつの心房が受け入れ、そしてその静脈血を、そのまんま又鰓に向かって、もうひとつの心室が、ただ押し出すのみ、という単純な二部屋だけの構造で、充分だったようです。 

この魚時代の心臓に、指令を出して動かしていたのは、やはり当然のように、自律神経ではあったのですが、それは今で言うところの三叉神経、つまり副交感神経の系統だけしかありませんでした。

そう、この副交感神経は、日々のいのちが常に平安に保たれるよう、すなわち、いのちの安らかな恒常性を、いつも願ってはたらくスヤスヤ系の神経です。

広い海の中で、胸ビレをふわふわ、口をぱくぱくと動かしながら、今日の~ご飯は~なんだろな~、などと、ほんわか気分でいつもいられた魚時代の暮らしが、交感神経系にいつもドキドキ・ソワソワさせられっぱなしのような、私たち現代人にとっては、なんとなく懐かしく偲ばれたりするのも、こんなところから来ているのかもしれません。

私たち人類の心臓には、魚君たちの心臓とは異なり、酸素を運ぶ動脈を扱う、もう一組の心室と心房があります。 

渚を這い上がり、上陸し、やがて2本の足で大地の上に立ち上がり、そして、山野を歩き、走り、命がけで狩をし、焚き火の周りで食事をし、といった、動と静が複雑に入り混じる生き様となっていった、私たちのご先祖さまの暮らしの変化に伴って、心臓にとっては、体の隅々まで、動脈血をしっかりと送り出す、ポンプ機能としての新たな心房と心室が、どうしても必要となった、というのは良くわかる話です。

私たちの、この悠久の年月をかけた、生命の上陸の過程で、もうひとつの、とても大きな不思議は、私たちのかつての心臓の仕組みに、動脈血をポンプのように送り出す、もうひと組の心房と心室が備わっていったとき、そこに入り込んで来た、新たな感性を持つ神経系統がありました。

そう、それが私たちの交感神経です。

交感神経の交感の意味は、互いに感じること、つまり感性を通い合わせること。

交感神経の英語は、 Sympathetic Nouvous Systemで、このSympatheticという英単語を辞書で引くと 、同情、思いやり、などと出てきます。 

いっぽう、私たちが、一般的な解釈として、最近でもよく聞かされるのは、たとえば、”交感神経は、現代で言うところの、刺激やストレスも含めた、外部からの様々な要因を感じて、心臓の鼓動を早め、副交感神経は、その反作用として、安定させる相補的な働きがある” などといった、非常に限られた範囲に絞り込んだ、そして、それとなく過激な表現での説明が、ほとんどかと思われます。

ところが実は、私たちの交感神経は、このように、その遥かに来たるところを辿って見ると、そんなにドキドキバクバクするばかりと言われるような筋合いの感性ではなくて、そもそもはいのちにとって、ズバリ原点としての感性、生きていくためには必須である、からだ全体の循環のようすを思いやり、感じとり、それらと互いに感性を通わせながら、その勤めを果たし続けるという、いわば体温の暖かさをもつ、むしろ、自らのいのちを、慈しむような感性であった、ということができます。

さて、ここでもう一度、思い出してください。

私たちのこころは息にあり、心臓には感性がある、そして息、呼吸を受け持つ肺と、循環を扱う心臓は、機能として密接に連携し合う、切っても切れない仲である、ということを。

このことは、言い換えるならば、かつて、わたしたちの心臓の仕組みに、動脈血を送り出す新たな心房と心室が備わり、そこに交感神経が入り込んで来たとき、同時に、現在の私たちが、自らのこころとして手なづけることのできる、息というものに、思いやり、通い合い、慈しむといった、すべてのいのちにとってかけがいのない、原点である暖かい感性が、すでに寄り添い始めていた、といえるのではないでしょうか。

では、翻って、この殺伐とした現代にいて、あ~も~疲れるな~、などと言いながらも、なんとか頑張って生きていこうとしている私たちにとって、呼吸、自らの息のなかに、私たちの心臓にもともと備わっているはずの、その慈しみ、思いやるいのちの原点のような感性に、じかにふれることはできるものなのでしょうか?

答えはもちろんイエス、です。

もし、あなたがダイバーならば、都会の雑踏を離れ、海に来て、海と陸とが出会うところ、たとえば、ひたすら波が打ち寄せては返す、渚のような場所に、ふと立ちどまる機会もあるはず。

そんな時には、そこに佇み、海の果てに目をやり、波の音を、ひとつふたつと数えてゆく。

打ち寄せては返す動作を、延々と果てしなく、繰り返す波のリズムが、私自身の、静かに繰り返す、息のリズムに重なり、だんだんと、ひとつになってゆく。

息が鎮まり、その息の、緩やかなリズムに、私のこころが寄り添う。

背筋を伸ばし、無理をせずに胸を開き、まるで浅い砂地の、小さなくぼみから吹き出される、貝の息吹のように、あるいは、あたかも岩場の陰で、産卵の時を待つ、ぷっくりとした海鞘の息吹のように、ながく細く、そしてできるだけゆっくりと、息を吐きだしていくと、その息が、あたかも自身の胸の奥から湧き出し、運び出される血液に乗って、肩から腕をくだり、手のひらにおり、そして、手指の先にまで届いてゆき、そこでほのかな暖かい炎が、ふわっと燃えて、手のひらに灯る。

息はまた、胸から湧き出て体をくだり、腰のあたりをへて、さらに足をくだり、膝を過ぎ、果ては足先裏にまで届いてゆき、そこでも、ほのかな暖かい炎が、ふわっと燃えて、足の指先の肌に映える。

吐く息を、細くながく、できるだけからだの隅々、さらにその先まで、その先まで、とつなぎ、さらつなぎ尽くそうとして、いつしかふと、我に帰るようにして、新しい息をつくと、まさにその時、からだの奥から、アタマの中にかけてが、はっと清らかで透きとおった水で満たされるように、一気に澄み渡る瞬間が訪れる。 

いのちをつなぐ、本来の感性、自らのいのちを思いやり、慈しみ、通いあう感性は、そのようにして私たちのうちに棲み、私たちが、自らの意思により、息を鎮め、息にこころを込めて、その息をつなぎ、さらにつなごうとすることによって、はじめてその本来の姿を、あたかも恥じらうようにあらわす。

そして、体のいたるところの隅々で、新しい炎を燃やし、それが、私たちの肌に映え、肌に灯り、そして、清らかに澄み渡る、真新しいいのちの喜びをもたらす。

すると、ふと優しい勇気のようなものが、私のこころに湧き上がり、まっさらな私自身の時間が、いまもうすでに、始まっているんだ、と思う。

つづく。。 

さわみしん

投稿者:

さわみしん

ボルネオ島の出入り口、ブルネイにいます。世界最古の生態系を誇る熱帯雨林を背に、前に南シナ海が開けています。ここはアジア・モンゴロイド圏のほぼ中央に位置し、古くより四方との交易の要所の役割を果たしてきました。 そして多くの民族や文化の交わりが幾多の波乱の歴史を産み、今もその躍動は継続しています。 南方にはスンダ列島、そしてはるか東方には台湾や日本が臨まれます。 

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中